自分の身の回りに、がんになった人、
たくさんいます。
自分より年下なのに、亡くなった人も。
その人があるとき、仕事場に来て、
「一緒にお酒を飲みませんか?」と
誘ってくれたことがあります。
仕事場の別の部屋にはワイン、
グラスなどが置いてあり、
飲めるようになっています。
「外にいくのもなんだから、ここで」
と答えたら、
「そう、外より、ここの方が静かで、
じっくり話せるかな」との返事。
早速、生ハム、チーズなどを
つまみにワインを飲み始めました。
好きな趣味の話、最近の仕事の話など、
結構、語りあい、どちらとも顔が赤くなった頃、
急に彼はグラスを置いて、
「突然で驚かれるかもしれないけれど、
親しい人には自分の口から直接言いたいと思って……」
との前置きをして、静かに語り始めました。
その内容は、朗らかな、
明るい話しぶりとは対照的な重いものでした。
末期ガンで余命わずかだと。
どう返事していいか戸惑っていると、
医師からそう告げられて、
しばらく悩んだけれど、もう現代の医学では
どうしようもないと悟った時、
一気に気分が楽になった。
そうしたら、これまで生きてきた時間、
親や家族、友達の温かさ、思いやりを
ものすごく感じられるように。
毎朝、目ざめて、寝室に太陽の光が
差し込んでいるだけで、たまらなく
幸福な気分になる。
まさに自分は今、生きているんだなと
実感できる。
そんなことを話してくれました。
末期ガンの患者のそうした心境を、
「キャンサーギフト」=「がんの贈り物」と
呼ぶということも教えてくれました。
末期ガンという命にかかわる病気になって
初めてわかる様々な価値。
がんになったからこそ、出会えた場所、人。
それらは本当は憎いがんが与えてくれた
ギフトではないか。
そんな風に思えたと。
こちらはただただうなづき、
ワインをのどの奥に
流し込むだけでした。
でも彼の嬉しそうな顔を見て、
ほっとする自分がいました。
「みんなにバカかって言われたんですけど、
新しい自転車、注文したんですよ。
届いたら見せに来ますから、また」
そういって、その日は
いつもの自転車でなく、
タクシーで帰って行きました。
彼とはそれが最後でした。
今日、少し風があるものの、柔らかな日のさす
両国橋を渡り、京葉道路を直進して、
両国のあるお店に行く途中、彼が注文したのと
同じ自転車が走り抜けるのを見ました。
不意に彼、彼との最後の話、
そして、キャンサーギフト
という言葉を思い出したのです。
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