ノンフィクション作家・久田恵さんの
産経新聞の連載「家族がいてもいなくても」。
9月1日は《過ぎ去らなかった思い出》
と見出しが出ています。
《家族がいてもいなくても(463)
クールコーヒー飲みながら…
過ぎ去らなかった「思い出」について》
http://www.sankei.com/life/news/160901/lif1609010014-n1.html
久田さんの家のご近所にある「隠房(かくれんぼう)」という
http://www.kakurenbou.jp/
自家焙煎、ドリップ淹れのコーヒー店の
店主との奇縁について書かれています。
今から3年前に、ご自宅の最寄り駅のホームで、
店主から声を掛けられ、四十数年ぶりに再会したとのこと。
この店主は、かつてはミュージシャン志望の大学生。
久田さんが作詞した人形劇の脚本の
挿入歌を作曲した方だったのだとか。
四十数年ぶりの再会。
そんなことってあるんですね。
この出会いがきっかけとなり、
ご自身が20代のころに書いた台本、
芝居の手書きのチラシを発見し、
当時の記憶が鮮明になってきたと言います。
お店で店主が命名した「クールコーヒー」を飲みながら、
当時の思い出話で盛り上がったとのこと。
エッセイの最後は、店からの帰り道に
ある詩人の言葉が思い浮かんだとして、
次のフレーズを書かれています。
「思い出とは、過ぎ去ったもののことをいうのではない、
過ぎ去らなかったもののことを言うのだ」。
あー。
これは長田弘さんの作品ですね。
(長田弘さんは残念ながら、
2015年5月3日、75歳で亡くなられました)
「思い出」ではなく
「記憶」だった気がしますが……。
「記憶のつくり方」との詩集の
「あとがき」の中に出てきます。
http://www.shobunsha.co.jp/?p=1075
《記憶は、過去のものではない。
それは、すでに過ぎ去ったもののことでなく、
むしろ過ぎさらなかったもののことだ。》
さらに続きます。
《とどまるのが記憶であり、じぶんのうちに確かにとどまって、
じぶんの現在の土壌となってきたものは、記憶だ。
記憶という土の中に種子を播いて、季節のなかで手をかけて
そだてることができなければ、ことばはなかなか実らない。
じぶんの記憶をよく耕すこと。その記憶の庭にそだってゆくものが、
人生とよばれるものなのだと思う。》
この本には、そうして育ててきた長田さんの記憶から
紡ぎ出された作品が並べられています。
《ジャングル・ジムに登りきったときふいに
空が展(ひら)け、訪れる静かな世界》、
そしてそこから落ちた時の痛み。
学校を休んだ時の午前の光に感じる孤独。
主に子どものころに記憶された情景を
大人になってからも育て続け、それを
思い起こして言葉が綴られています。
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誰のものか忘れてしまいましたが、
「記録ではなく、記憶されたものだけが人生だ」
という言葉があります。
紙、写真、ビデオなどに記録されている人生の一コマ。
しかしそこにその時のすべてが記録されている訳ではありません。
その場所の匂い、触感、自分の感情、感覚などは、
自分の記憶の中にしかありません。
膨大な時間の中から記憶された
一瞬、一瞬がその人の人生を形作っている
と言えるのではないか。
お金や物より、そうした記憶を
たくさん持っている人の方が、
豊かで充実した人生なのかもしれません。
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