2022年で徳川家康480歳。来年の大河で家康役の松本潤が「誕辰祭」参列。
2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」。
すでに徳川家康に関する番組、書籍などが特集され、発売されるなど、
盛り上がっていますね。
そんな中、12月26日に、静岡の久能山東照宮で徳川家康の480回目となる
生誕祭「誕辰祭」が開催され、大河で徳川家康を演じる松本潤さんが参列しました。
家康公は、1542年のこの日に岡崎城で生まれています。
ちなみに生まれたのは、天文11年12月26日。これはユリウス暦だと1543年1月31日。
さらにグレゴリオ暦だと1543年2月10日にあたるそうです。
なお亡くなったのは、元和2年4月17日で、グレゴリオ暦では1616年6月1日になります。
当然ながら、日本の暦で生誕祭を行っているんですね。
《家康生誕祝う祭事 「どうする家康」主演・松本潤さんらが参列
12月26日 15時23分》
https://www3.nhk.or.jp/lnews/shizuoka/20221226/3030018738.html
国宝 久能山東照宮 公式
@kunozan_toshogu
久能山東照宮
https://www.toshogu.or.jp/
今では東照宮は日光が有名ですが、家康公が眠っているのは、この静岡の久能山です。
《徳川家康公は生前、家臣に対し、自分の死後について「遺体は駿河国の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎて後、下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ、八州の鎮守になろう」(『本光国師日記』より)との遺言を残されました。
この御遺命により御遺骸を久能山に埋葬し、その地に2代将軍秀忠公の命により久能山東照宮が創建されました。》
「誕辰祭」とは。「たんしんさい」。故人の誕生日を祝うお祭り。
この生誕祭は「誕辰祭」と記されています。
「たんしんさい」と読み、故人の誕生日を祝う祭のことを言います。
今回は家康公ですが、菅原道真公のお祭りが良く知られています。
ちなみに道真公は、承和12年(845)陰暦6月25日のお生まれで、
その年の陽暦は8月5日です。
なお全国の天満宮では、この6月25日に「御誕辰祭」が開かれます。
《御誕辰祭(ごたんしんさい) 大茅の輪くぐり》(京都、北野天満宮)
https://souda-kyoto.jp/event/detail/gotanshinsai.html
クリスマスは、イエスキリストの誕生祭。本当に12月25日なの。
12月25日はクリスマス(英語: Christmas)。この日はイエス・キリストの降誕を記念する祭。
キリスト降誕祭(単に降誕祭)、降誕日などと呼ばれています。
しかし聖書にキリストの誕生日が12月25日との記述はなく、逆にそれ以外の季節、日ではないか
と言われています。
実際、キリストの死後、何百年もたって(4世紀初頭とされる)から、生誕を祝う日として12月25日が選ばれたと言われています。「冬至」の時期であるこの日前後に、異教の祭が行われており、キリスト教会が、布教を目的として、この日をキリストの誕生を祝う日としたと解釈されています。
なおウクライナは、これまでロシアと同じく、クリスマスを旧ユリウス暦の12月25日、現在のグレゴリオ暦の1月7日に祝っていましたが、戦争により、ロシアからの離脱を狙い、12月25日にクリスマスを
祝うとニュースで伝えられていましたね。
家康は何年生まれなのか。《[磯田道史の古今をちこち]家康は「寅」か「卯」か》
2023年1月11日、読売新聞の《[磯田道史の古今をちこち]家康は「寅」か「卯」か》で、
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20230110-OYT8T50137/
徳川家康の生まれ年について書かれていました。
《徳川家康は1歳だけ年齢を年上にサバ読みしていたのではないか。一般にはあまり知られていないが、戦国史の専門研究者の頭を悩ませ続けている問題だ》。
初めて知りました。家康はいつ生まれたのか。
《家康は天文十一(1542)年十二月二十六日の生まれとされる》。
多くの資料がそのように記していると。
《ところが、家康自身は自分の生年を天文十二年のウサギ年生まれとしているのだ》。
おまじないの時に神にむけて書く願文には、《「六十一歳癸卯歳」と記している》とのこと。
では家康がなぜ自分の成年月日を偽ったのか。原史彦氏の本を引用しています。
《天文十一年十二月二十六日が「寅の年・寅の日・寅の刻」で「誕生日すらも帝王になる資質を備えていた」とするため誕生日を「置き換える操作が必要だった」(「徳川家康イメージの現在」)》。
磯田さんも《この考えに近い》として、《勇猛にみせるイメージ戦略が要った》としています。
さらに家康の父の連歌会の記録を元に天文十一年十二月末ではなく、《天文十二卯年二月二十六日から遠くない日に生まれた可能性》があると。
《家康は竹千代と命名された。家康の父・松平広忠が連歌会で「めぐりは広き園の千代竹」と詠んだのにちなむ。》《連歌会の記録(懐紙)の日時は天文十二年二月二十六日夜だ(称名寺文書)。家康は大事な嫡男だ。天文十一年生まれなら連歌会の日まで二ケ月間も命名されなかったことになる》。
なるほど。説得力がありますね。
家康のように、天下を収めるにふさわしい資格を持つと言うために、
成年月日を偽ったり、誕生にまつわる逸話(磯田氏のコラムに
《家康の母が「夢に十二神の内(寅の方位を守る)真達羅大将が
袖に入るのをみて懐妊した」》とある)を盛る例はいくつもあるようです。
確か豊臣秀吉。旧暦の天文5年1月1日であるとされてきました。
しかしこの根拠は、資料としては信頼性に欠ける「絵本太閤記」に基づくものとして、
他の文書などから、現在では旧暦の天文6年2月6日が有力とされています。
1月1日としたのは、生まれながらに英雄であると示したかったと解釈されています。
また懐妊の伝説も。母親が自分の腹に日輪(にちりん、太陽)の懐に入る夢を見て、
子を宿したというものです。さらに懐妊して十月十日しても生まれず、
結局、13ヶ月たった天文5年の1月1日に誕生したと。
そうして生まれた子の幼名は、太陽にちなみ「日吉(ひよし)」
「日吉丸(ひよしまる)」とされたのですね。
「日輪の子」であると示す名前ですね。
時を遡って聖徳太子にも誕生にまつわる伝説が。
敏達3年(574年)正月元日に母である間人皇女が宮中を散歩していたら、
馬小屋の前で、急に産気づき、馬小屋で出産するのですね。
生まれた子を寝殿に入れると、西方から赤や黄色の光がさしこみ、
寝殿はよい香りが漂った。赤子は手に仏舎利を握っていたとも。
この時も産み月を超え、13ヶ月たっていたそうです。
イエス・キリストの生誕伝説も有名ですね。
ここでは今更記しませんが、聖徳太子と似ています。
なお聖徳太子の伝説は釈迦のエピソードも取り入れていますね。
洋の東西、時代を問わず、偉人、聖人、英雄には、
生誕にまつわる様々な伝説があるようです。
家康の年齢さば読みもそうなのかもしれませんね。
15日放送の「どうする家康」第2話で、生母による干支詐称が明かされた。
「どうする家康」の第2話が15日に放送されました。家康は家臣達に「わしは寅の年、寅の日、寅の刻に生まれた武神の生まれ変わりじゃ!そなたたちのことは、このわしが守る!わしが守るんじゃ!」と
告げ、大樹寺から岡崎に戻ります。
時は元康誕生の時に遡ります。母・於大の方は、「この子はきっと強い武者になりましょう。何せ、
寅の年、寅の日、寅の刻に生まれましたゆえ、寅の化身のように逞しくなるに違いありません」と。
父・松平広忠は、年が明けて、兎の卯年であることに気付きますが、於大の方はそれを制して、
「寅です。数日早く生まれたことにすればよいのです。この子は寅の生まれ、寅の子です。
兎などいけませぬ。狼に狩られてしまいます」と。
この脚本では、母が、誕生を偽ったということになっていますね。
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