中原誠将棋名誉王座が脳出血、大腸がんで引退した後、励みにした画家・中川一政の生き方。真鶴の港を20年間描き続ける。

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日本経済新聞の「私の履歴書」。

著名人が自分の人生を振り返る
人気の連載です。

2016年5月は、将棋名誉王座の中原誠さん。
30日は、第29回《大病》と題し、脳出血で左半身麻痺となり、
さらにその闘病中に大腸がんになり、61歳で引退した頃の
ことが記されています。

リハビリも含めた長い入院生活。
それ以上に退院してからの楽ではなかったよう。
《毎日の体操もつらいときがあった》
と告白されています。

そんな日々の
《励みになったのは中川一政画伯のこと。
中川先生は神奈川・真鶴の港を約20年、
毎日のように描いた。よほど天候が悪く
ならない限り、毎日である。仕事とはいえ、
世の中にはすごい人がいると思ったものである》。

中川一政さん。

日本画壇の重鎮。

脚本家向田邦子さんの「あ・うん」の装幀、

力強い筆致の「駒ヶ岳」「薔薇」「ひまわり」などが有名です。
一度はどこかでご覧になったことがあるのではないでしょうか?

詩作から出発し、洋画、日本画、随筆、書、陶芸など
幅広く活躍されました。
1893年、東京生まれで、1991年平成3年に
亡くなられています。
1975年文化勲章を受章。

中川一政画伯が、真鶴にアトリエを構えたのは、
56歳の、1949(昭和24)年。
戦時中、伊豆に疎開し、その際に
この真鶴の風景に魅了されたところから、
この地を選んだそうです。

真鶴には、
現在、真鶴町立の中川一政美術館があります。
http://www.nakagawamuseum.jp/

中川さんは、中原さんの文章にあるように、
真鶴にアトリエを構え、20年間、
「世界一大きいアトリエ」と称して、
真鶴半島の付け根にある漁村福浦の風景を
描き続けたのでした。
(また箱根に出かけ、箱根駒ヶ岳を描きました。
亡くなるまで多くの時間を真鶴で過ごされています)

《還暦を前に神奈川県の真鶴に移り住み、同じ漁港に20年間
通い続けて何十枚も描き続けた。いつも同じような絵を描いて
いるから、最初は珍しがっていた地元の漁師も見に来なくなった
という。》

日曜美術館
《2011年3月20日放送 再放送:3月20日よる
97歳の“正念場” 洋画家 中川一政》
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2010/0320/

この福浦で描かれた一枚「福浦突堤」が、
「美の巨人たち」で取り上げられています。

2013年2月16日
《中川一政「福浦突堤」》
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/backnumber/130216/index.html

福浦の
《可愛らしい灯台が立つ港の突堤。そのコンクリートの岸壁こそ、
画家が生涯愛したアトリエでした。灼熱の夏も、凍てつく冬も、
画家は来る日も来る日もここにイーゼルを立て、目の前の漁村の
風景を描き続けたのです。》

なぜ中川一政は、20年も同じ場所の写生を続けたのでしょうか?

番組では次のように解説しています。

中川一政は、若くして岸田劉生に認められたものの、
一方で、《正式な美術教育も受けず、学ぶべき師も
留学経験もない自分が、世の中で本当に画家として
認められるのか…?》との思いを抱いていました。
(画業に限らず、書、詩歌、陶芸なども独学だった。
中川は、自分と同様、専門の美術教育を受けずに、
独自の画風を確立したゴッホに傾倒した)

《そんなコンプレックスを打破するために、中川は50代半ばで
真鶴にアトリエを構えました。そして、突堤に立つこと20年。
80枚も漁港を描き続けた結果、画家は一つの境地に辿りつくのです。》

東京杉並の自宅に妻子を残し、一人真鶴に移った中川一政画伯。

そこである意味、平凡な風景を描く。
これを描ききれれば、画家として一人前になる。
そうした決意を秘めていたことでしょう。

毎日、福浦の港の突堤にイーゼルを立て、
写生をすることで、コンプレックスに向き合い、
克服しようとしていたのかもしれません。

毎日の写生は、自己の弱さに向き合う行為であり、
一方では創作の原動力となる感動を
もたらしてくれるものだったのでしょうね。

《文春写真館》
《画家、中川一政は水墨画、書、陶芸や随筆にも才能を発揮した》
http://hon.bunshun.jp/articles/-/2230

「美術」ではなく「生術」。
やむにやまれぬその思いを、
絵画で書で詩文で表現する。

独行此道。

 

 

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