落語家の桂ざこばさん。
1947年9月21日生まれ、
本名は、関口弘(ひろむ)さんです。
弘法大師に由来した名前なんだそうです。
なぜだかおわかりですか?
毎月21日は弘法市。
そう空海=弘法大師の月命日なんですね。
21日、弘法市の日に生まれたことから
弘という名前をつけたそうです。
この日は「縁日」。
神仏がこの世と「縁」を持つ日。
この日に参詣すると大きな功得があるとされています。
京都の東寺では、空海入寂の3月21日を期して、
毎月21日に、御影堂で御影供が行われています。
(当初は年1回。1239年以降は毎月)
では弘法大師の誕生日は?
釈迦の生まれた日は、4月8日。
「灌仏会(かんぶつえ)」=花祭りが行われます。
お寺では花で飾った御堂を作り、その中に釈迦の
誕生仏を安置して甘茶をそそぎかけて供養します。
弘法大師は宝亀5年・774年6月15日に生まれました。
(亡くなられたのは 承和2年・835年3月21日)。
余り知られていませんが、この6月15日に、
高野山では「青葉まつり」が開かれています。
また生誕の地である善通寺では、
弘法大師御誕生会が行われ、お大師市が開かれます。
http://www.zentsuji.com/annual_event/
ちなみに6月15日は、中国密教の大成者である
不空三蔵の入滅(にゅうめつ)の日(亡くなられた日)であり、
弘法大師は不空三蔵の生まれ変わりと言われているそうです。
(ちなみに、日本語の月曜、火曜などの曜日の名前は
不空三蔵の著書に由来する)
これには偉人に必ずある、誕生の秘話があります。
弘法大師の父上と母上は、
「天竺(インド)のお坊さんが紫色に輝く雲に乗って、
母上のふところに入られる」という夢を同時にみた後に、
真魚(後の空海、弘法大師)が生れたのだそう。
空海は、遣唐使として唐に渡り、恵果に学び、
密教の秘儀を日本に持ち帰ります。
その恵果の師は、不空三蔵。
不空三蔵は、死の床で恵果を呼び、
次のような遺言を述べたというのです。
「自分はまもなく死ぬ。おまえには金・胎両部の秘法を伝えた。
けれど密教は唐では、やがて滅ぶ。自分は東の国に密教を伝えたい。
自分は東の国へ生まれ変わり、お前に再び巡り会い、弟子となる」
恵果は、師の言葉を信じて、未来の弟子を待っていたのです。
空海は、30年後、唐に渡ってきて、
恵果の弟子になったのでした。
数ある弟子をさしおいて、密教の後継者となった空海。
わずか2ヶ月ほどの間に、金・胎両部の秘法を授かりました。
すべてを伝え終えた恵果は
その年の12月にこの世を去るのですが、
(746年生まれ。永貞元年12月15日・806年1月12日没)
その臨終の席で、今度は空海に次のように告げます。
「師弟の関係は永遠である。お前は、日本に帰り密教を広めなさい。
自分は先に日本に生まれ変わり、今度はお前の弟子となる」。
恵果は、日本で生まれ変わり、覚鑁(かくばん)と言う
空海の孫弟子になったのでした。
(嘉保2年6月17日・1095年7月21日生まれ。
康治2年12月12日・1144年1月18日没)
覚鑁(興教大師)は真言密教中興の祖と言われています。
この生まれ変わりに関しては、
上の恵果の遺言の他に
次のような話が伝えられています。
覚鑁上人に帰依していた鳥羽上皇。
ある夜、恵果阿闍梨の夢を見たのですが、
その姿形は、覚鑁と瓜二つだったのでした。
上皇はそれに驚き、以後より深く、
信仰をするに至ったのです。
信仰心のない自分ですが、
こうした連綿と法灯が続くストーリーは
なかなか興味深いものがあります。
〇法灯
大日如来→金剛薩埵(こんごうさった)→竜猛(りゅうもう)
→竜智(りゅうち)→金剛智(こんごうち):中国に渡り密教を広める。
→不空三蔵→恵果→空海
〇弘法大師は、入滅ではなく、「入定」。
これは生きて禅定の修行に入っている状態。
このため、現在も、生きているとして、毎日朝と昼前に、
奥之院に食べ物を運んでいるそうです。(生身供しょょうじんぐ)
また3月21日には御衣替(おころもがえ)として、衣服が替えられる。
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